古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

『カメラを持った男』を見て

A man with a movie camera (1929)
Filmed by Dziga Vertov

モノクロ・サイレント映画の最高峰と言われそうな作品。映画から文学性、演劇性などを削ぎ落とし、「映画にしかできないこと」を追求するという映画をよく見る人なら一度は考えそうなアイデアを形にした実験映画。
映画の冒頭はこんなキャプションからはじまる。

「カメラマンの日記からの抜粋。
観客の皆さま、以下の事項にご留意ください。
この映画は、現実の出来事の映画的コミュニケーションにおける実験である。中間字幕、物語、演劇の助けを借りずに演劇と文学の語法からの完全な分離によって、この実験的作品は真に国際的な映画言語を目指す。」

映画の序盤で人間の眼とカメラのアナロジーが提示され、映画の仕事をしている主人公の「男」が日々見ているものをカメラが捉える。このとき両者は一つになる。
映される対象は次々と移り変わり、男が生きる現代社会の産業に焦点があたる。ここでカメラは人間の眼から乖離を示す。現代社会の特徴である「スピード」タバコ工場の少女や電話交換手が操る電話線の動きなどにそれは表される。人間の眼はスピードを知覚できないわけではない。動きの速度が上がっていると分かるからこそスピードという概念がある。しかしその動きを、極めて小さい時間の間隔によって寸断された写真として捉えるカメラとは違う。このときカメラは人間の眼と同じ役割を果たすのではなく、人間の見ている現象を再現するものになる。あくまで人間はこの映像からスピードを感じ取っているのであり、カメラが人間のような知覚をしたわけではない。人間の眼とカメラとの関係はあくまで「似てる」ものに留まり、「同じ」になるわけではない。と思ったが…監督がどう思っていたかは知らない。しかし、カメラのファインダーは閉じられるが眼は開かれ続けるラストを見ると、そんな解釈でもいいような気がしないでもない。