古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

思い出の掃き溜め 3

文藝部で書いた最後のものは、欲望と思い出を詰め込んだオムニバスでした。小学校高学年の頃、書いてたお話がありました。それはギリシャ神話に登場する王女たちをイメージしたもので、数の美学に魅せられて無駄に登場人物を増やしてしまいました。計画性もなく何人もの人物を動かすことができなくて、その話は断ち切れになってしまったけど、忘れられなくて何らかの形で復活させたかった。小学生の時のアイデアで一番魅力的だったのが「タイムスリップ」。頭が悪すぎてSFもミステリーも書けないけど、歴史はずっと好きだったからタイムスリップ面白そうと思ってたのです。当時は古代ギリシャ独立戦争中のスイスというハチャメチャな組み合わせだったけど、高校生にもなったので良くも悪くも常識がついて、一応一つの国の中でタイムスリップさせようと決めた。

骨格が決まったら、あとはもう好きなもので埋めていくだけ。舞台はドイツ。小学生の時からずっと好きだったドイツ。いろんな時代があってどれも好きだった。高校生になってからはもっとマイナーな国がかっこよく見えてしまってたけど、ドイツが好きな気持ちは変わらなかった。ハイネの妖精物語、グリム童話ルートヴィヒ2世、世紀末ウィーンで攻めよう。(最後のはドイツじゃなくねっていうのは確かにありました。好きだからぶち込んだだけ。ドイツ語圏ということでこじつけた)そしてずっと私の生活を作ってきたバレエを題材にしたかった。ハイネ、バレエ、そう、ジゼルです。ジゼルを踊るバレリーナを主人公にして、彼女がタイムスリップするという。あと鏡も使いたかった。バレエスタジオには必ず鏡がある。鏡のあの神秘的な感じを出したかった。それからアルバン・ベルク。スキャンダラスなオペラを作った音楽家です。そこにクリムトやヴァリもねじ込んで。

そして小学生の頃やりたかったのは、ドイツの森を舞台にすること。本来は質の良いはずの本や映画を好きなところしか見なかったせいで、下手なゴシップのようなエピソードを作ってしまった。書いてる途中もどうかと思ったけど、読み返すたびに後悔する。でも結局ゴシップが好きなのよね、悪趣味だから。

そしてそして、ヴィスコンティのルートヴィヒに出てきたポテンツの実験のエピソードを使った。評論家からは難癖をつけられてたけど、わたしは好き。趣味悪いから。実験させられる女優役には、『不滅の恋人』やソクーロフの『ファウスト』に出てくるような庶民階級の娘をイメージした。ついでに快活なパウラ・ベーアのゾフィーを一振り。(ちなみに名前も好きだったから別なところで使った気がする)純真な彼女がルートヴィヒに恋をして落ちぶれていくという、あーねってなるやつ。このルートヴィヒの章書くために本一冊読んだけど、妄想が補強されるだけでさしたるあれはなかった。

物語の最後に、これまで文藝部で書いてきたお話のヒロインを総集合させた。プリキュアかよ。

Iさんの思い出

今週のお題「告白します」

とは言ったものの、別に告白という雰囲気じゃない。告白というより、むしろ言いたい、言わなきゃ苦しいし、書くことで少しでもこの感傷みたいなものを床に置いて、自分にとって必要なものを、本当に手に入れたいものを掴み取れると思うから。

Iさんが好きだった。小さい頃から憧れの人はIさんだった。彼女のような女性になりたいと思った。戦闘的で、文化的で、声がでかくて、喧嘩っ早くて、警察にも街宣車にも掴みかかってくような、でも知的で、すごく長い間考えて本質的なことを言うIさんが好きだった。私をかわいがってくれた。少しでも長く一緒にいたいと思った。父親のタバコは嫌いでも、Iさんの吸うタバコは好きだった。姐御肌で、芸術的で、肩にトカゲをのっけて歩くようなかっこいい彼女になりたくてしょうがなかった。他の誰よりもIさんに言われる言葉が一番好きだったし一番突き刺さった。Iさんを思い出させる人が好き。話し方、雰囲気、挙動、その他諸々が似ている人が。Iさんを知っている人と彼女の話をしてる時が幸せ。酒に強くて、ハッタリが効いて、絵が上手くて、お洒落な彼女の思い出話をすることが。

これでひとまず気が済んだと思う。もうこんなIさんには会えない。というかこれは私の妄想の中の彼女だから。彼女に正面から向き合えた時、他の人にも正面から向き合える。逆もまた然り。次会うときはもう、理想の女性像ではない。というか理想像とか、女性像とか、そういうもの全部、きっと彼女は気持ち悪いと思うだろう。私も、親友の娘というなんだか潔癖な都合のいいイデアとしてではなく、人対人として再会したい。喧嘩別れというか、私が傷つけてしまったあの時から、彼女の精神状態がとても不安だ。でも会ったらそのこともきちんと話したい。またIさんに会いたい。

チョコレート文藝

今週のお題「チョコレート」

チョコレートと女の子という繋がりは全く好きではないが否めないものがある。女の子と文藝という繋がりも然り。私のいた文藝部では、「チョコレート」を使った文章がいくつかあった。どれも女子部員が書いたものだった。

バレンタインシーズンに先輩が書いた『チョコレート戦争』が好き。『チョコレート戦争』という児童文学もあるけど、実はあれは甘い物好きの男の子が主人公で、私の嫌悪感を見事にぶっ飛ばしてくれるすばらしいお話。一方、先輩の『チョコレート戦争』は普通にバレンタインの定石を行く短編で、絶賛片想い中の内気な女の子がチョコを渡して男の子に告白したいのに、大好きな彼をお菓子で窒息させてしまいそうになるというロマンティックで攻撃的な、いかにも思春期の女の子が好きそうなお話。(なんだか先輩をディスってるみたいでちょっとやだな…)大好きですよ。

そしてバレンタインシリーズ二つ目は、同期の部長が書いた甘々ラブコメ。ヒロインの名前が「いちご」というね、ストロベリーチョコレートなんて美味いに決まってんだろみたいなね。そのヒロインがまたまた片想い中のクラスメイトにチョコを渡したい話なんですよ。渡したい、渡したいけど、彼にはかわいい彼女がいるから私は釣り合わない…ってうじうじして、でも結局その男の子もいちごちゃんのこと好きでしたーはいチョコいただきーっていうハッピーエンド。これも大好き。めっちゃ読み返した。いまも帰省すると読み返す。

かくいう私も書いてるんですよ。まあ甘い物全般だけどね。『シュガーマン』っていう甘い物食べ過ぎて自分が食いもんになっちゃったというジンジャーブレッドマンのなり損ないみたいな話を書きました。チョコばくばく食って、クリーム飲んで、アイスもプリンもだぁいすき!私は甘い物食べ過ぎちゃうので、小説の中でたらふく食って現実では食べんなよというつもり書いたんだけど、結局いま、高校の時より食ってるわ。だめだこりゃ。

チョコレートに限らず、文学の中の食は美しく面白い。

思い出の掃き溜め 2

計画的に書いたお話。

私は映画狂の高校生だったので、年がら年中映画を見てました。高校1年の冬くらいに、国語便覧に載ってる世界文学作家一覧の映画版作りたいなと思いついた。ヨーロッパ映画と、ハリウッド以外のアメリカ映画に限定して書こうと決め、とにかくいろんな監督を漁り始めた頃に出会ったのがルイス・ブニュエルでした。ブニュエルシュルレアリストで、色物好きな私は無条件で好きになれる映画監督。車爆破させて、ちぎれた手が這いずり回って、すごい気持ち悪くて好き。そんなブニュエルジャンヌ・モローと組んで作ったのが『小間使の日記』。これは彼がフランスというかヨーロッパに戻ってから作った作品なので後期にあたる。この作品の前に、『ビリディアナ』と『皆殺しの天使』という作品を作っていて、どちらもシルビア・ピナルというメキシコの女優を主演に据えたスキャンダラスな作品。ちょうどこの時ブニュエル特集が組まれていて、この2作の予告編を見てブニュエルを知った。でもこの2作以外だとあんまりレンタルに置いてなくて、高校の近くにあった変な名前のレンタル屋にたまたま『小間使の日記』があって狂喜乱舞していたのを覚えている。『小間使いの日記』はオクターヴ・ミルボーの小説で、この映画を含めて3回映画化されている。『あるメイドの密かな欲望』は見たんだけど、ルノワールの方はどうしてもなくて、というかルノワール作品自体が全然なくて歯がゆい思いをした。『小間使いの日記』は、フランスの上流社会を皮肉った小説で、腐りきったブルジョワジーに仕えるメイドがその家庭の退廃を物語る。ブニュエルは左翼だったから、特に後期作品はブルジョワジーに焦点を当てた映画群から構成されている。主役のメイドをジャンヌ・モローが演じたわけだけど、監督は「モローの、足首を左右に揺らす歩き方を見て彼女をセレスティーヌにしようと決めた」的なことを言っていて、これだけ見てもブニュエルがいかに気持ち悪いかわかると思う。ていうか足首左右に揺らすってなんやねんって思ってたら、フランソワ・オゾンの『8人の女たち』でモローのセレスティーヌへのオマージュが捧げられてて、モローとそっくりの衣装を着たエマニュエル・べアールが、黒いブーツでメイドの白いエプロンを踏みつけるシーンを見て、ああ、左右に揺らすって足首グラグラしてるってことかなと。それはまあそれでスッキリしたからいいんだけど。

で、本題は映画じゃないんですよ、『小間使いの日記』みたいな話が書きたいと思ったんです。この小説に一番惹かれたのは、やっぱり主役のセレスティーヌの被差別性ですね。セレスティーヌはメイドとしてブルジョアの家庭で働くんだけど、そこの主人から言い寄られる。それは別にそのキモい主人に限らず、セレスティーヌがどこへ行っても彼女を見る目は欲望にまみれている。彼女の階級の低さと女性性は二重の抑圧の渦中にある。一面的に見れば、彼女は従順なふりをして主人たちを見下し抑圧の影でほくそ笑むというかっこいい話なんだけれど。

『小間使いの日記』に限らず、メイドや下女といった階級の低い女性が、主人から虐げられ性的搾取を受けるという話は古今東西たくさんある。それの現代版を作りたいなと思って書き始めた。舞台はフランスにしよう。住み込みのメイドを現代風にするならどうなるだろう?欧米では比較的住み込みのお手伝いさんというものが一般的。特に学生とかは、家事や育児を手伝う代わりに、その家の一室を与えられて家賃は払わなくていいよという慣習があるらしい。それをau pair girl というらしい。(ちなみにgirl という呼び名は階級性が露骨に出ているので重視した)というところから始めて、子持ちの家族のもとで働くフランスの大学生、という設定にした。

基本的な構造は『小間使の日記』に倣ったが、現代性を出すために家のしつらえや家庭の雰囲気はオゾンの『危険なプロット』や『17歳』、オゾンではないけど『譜めくりの女』というフランス映画をイメージした。ヒロインを翻弄し彼女に翻弄される夫婦の造形はオゾン映画からの借用だった。

いろいろ設定を決めて書いたことは何度かあれど、ここまで細かく決めていきながら書いたのはこれだけだった。普段は行き当たりばったりで書いていたけど、この時は本文の他に(かっこよく言うと)構想ノート的なメモを使いながら書いていた。まあこれもオゾン映画のパロディと言われればそうなんだけど。

テンション上がってしまった話

とある先輩とこれまでで一番(おそらく?)たくさん喋った。

彼が自分の思想全てをさらけ出したとは言わない。でもあれほど喋っているというだけでレア。結構いい事を言っているなと思った。(謎の上から目線)

彼の話は色んな人から聞いているので、先輩の間接的に形成されたイデアをもとに話してるような気分になってすごく喋りづらかった。評判はかなり高い。なにか失態があったとしてもそれを補って余りある信頼の蓄積が半端ない。それだけだったらすごいですねで終わるからいいが、問題なのは、自分の話なんか聞けないと思ってそうということだ。私は頭が悪いしわざとでもわざとじゃなくても口を滑らせるし自分の気持ちだけで動くことがあまりにも多く、はっきり言って話すに値しない相手ではある。おしゃべりだけならそれなりに暇つぶしにはなるかもしれないけど、無駄なおしゃべりはしません的な感じなので。というかおしゃべり苦手そうよね。

義務感がすごく強い人なので、正味自分と話すのも半分以上義務だろうと。ただの義務ならまだいいけど、すでに数えきれないほどの罪を積み上げているので(ちょっと違うけど時々こんなくだらないことを言ったりする)呆れられているのは明らかである。しんどいですよ、彼の前でなんか話すのは。正直言って一言だって話したくない。これ以上残念な子になるのは忍びない。それでもまあ若いうちに恥はいっぱいかいとけと言いますし。仕方ないよね、自分が勉強不足なのがいけないんだから。身から出た錆。

彼の優しさが溢れすぎて痛かったけど嬉しかった。

先輩の存在を感知してからまだ一年くらいしか経ってないしそんな近しい関係でもないので、私の見てきた彼の姿は部分的なものに過ぎない。でもふとした時にすれ違ったり、言葉を交わしたり、そういう小さな出来事が積み重なって彼への興味は増えていくし、そうした思い出は欺瞞的に美しく見える。こうして人は人を好きになるんだろうなって思う。人間やめたら?みたいなこと言われた自分でも、まだ人の間で生きていける気がした。

星野源ではない。

恋、を知っているのか分からない。恋、してるのか、それもよく…分からない。(いいぞ、恋愛してるっぽい戸惑った書き出しいいぞ)

自分の中からなるだけ恋を捨象してきた。恋ではなく愛で満たしたかった。英語の翻訳が間違ってる、恋はdesireで愛だけがloveなんだなどと色めきたったことを言う高校生だった。でも案外じぶんの中で恋(もう定義なんてどうでもいいっす)が占めてた割合は大きいのかもしれない。

中学校のころ好きだった人からはじめよう。さらさらした髪が印象的な、すーっとした子だった。顔立ちがね、すーっと、ちょっと冷たい感じ。でもこわくなくて、爽やかな感じですかね。最近会った先輩がその人に似てた。似てて、まあ好きなんだけど、その好きがどういう好きなのかわからない。どのレベルの好きなのか。「好きだった人に似てるから好き」なのか「顔が似てて、つまりそのタイプが好き」なのか、はたまた「割と、いやだいぶ知的で、話し方が落ち着いてて、ついでに、いかにも妹持ちのお兄ちゃんという感じの優しさもあって好き」なのか。うーん。よくわかんない。

次に思い出したのが、小学校の時好きだった人。サッカー部で、体育の時間に教えてもらってちょっと嬉しかった。B群だったけどな。めっちゃ机に鼻かんだティッシュ溜め込んでて、いや本人は溜め込んでるつもりとか全然なくて、たぶん休み時間に捨てに行こうと思ってて忘れてたかなんかだろうけど、それを女の子に見つかって「きたな〜い」みたいなこと言われて泣いてたのを見て、同じ鼻炎持ちとして、ああやっちまったな、どんまいって思ってたのが印象的。こんな思い出しかなくて残念無念。

高1のときに、美術部の先輩を好きになった。が…なんだか今思うとあれは「好き」というより「推し」ていたのかもしれない。先輩の描いた絵を毎日見に行ったり、移動時間になるとすごい目で探したりして結構ストーカーじみてた。あーこわいこわい。金輪際しません。でもとにかく絵の上手い先輩で、1年と2年が合同でやる巨大工作みたいなののデザイン制作を全部一人でやってて、それをお掃除しながら見ていた、と。(「お掃除が終わったら○○してもらえますか?」ってファンサしてくれてから、掃除のこと「お掃除」って言うようになった。懐かしいですね)

高3の時のことは…もう排出したからよいのです。でもなんかタイプが似てる気がする、美術部の先輩と。いやあんま似てないか、運動部だったし。でもある意味似てるかも。体弱かったからね。精神性?わからん…(なんか話しかけたくてどうでもいいこと聞いて「わからん」って言われてから分からんってよく言うようになった)

いや、でもこんなしょうもないこと書いてるのは、色々あったけど新しい恋でもして忘れたいからなんですよね。でもそれってめっちゃ迷惑な話で、メンヘラ状態で誰かと恋愛関係に陥るとかなり危険だということを身をもって知ったにも関わらず、それを他人にぶつけると。負の連鎖ですよ。絶対やっちゃあかん。

ということでしばらくトラウマの元凶から離れた生活をはじめようかと思います。そう、まずはこの空間から出ること。ヒーターを消し荷物をまとめて、いやその前に頭洗って、自転車で北上するのだ!

『カメラを持った男』を見て

A man with a movie camera (1929)
Filmed by Dziga Vertov

モノクロ・サイレント映画の最高峰と言われそうな作品。映画から文学性、演劇性などを削ぎ落とし、「映画にしかできないこと」を追求するという映画をよく見る人なら一度は考えそうなアイデアを形にした実験映画。
映画の冒頭はこんなキャプションからはじまる。

「カメラマンの日記からの抜粋。
観客の皆さま、以下の事項にご留意ください。
この映画は、現実の出来事の映画的コミュニケーションにおける実験である。中間字幕、物語、演劇の助けを借りずに演劇と文学の語法からの完全な分離によって、この実験的作品は真に国際的な映画言語を目指す。」

映画の序盤で人間の眼とカメラのアナロジーが提示され、映画の仕事をしている主人公の「男」が日々見ているものをカメラが捉える。このとき両者は一つになる。
映される対象は次々と移り変わり、男が生きる現代社会の産業に焦点があたる。ここでカメラは人間の眼から乖離を示す。現代社会の特徴である「スピード」タバコ工場の少女や電話交換手が操る電話線の動きなどにそれは表される。人間の眼はスピードを知覚できないわけではない。動きの速度が上がっていると分かるからこそスピードという概念がある。しかしその動きを、極めて小さい時間の間隔によって寸断された写真として捉えるカメラとは違う。このときカメラは人間の眼と同じ役割を果たすのではなく、人間の見ている現象を再現するものになる。あくまで人間はこの映像からスピードを感じ取っているのであり、カメラが人間のような知覚をしたわけではない。人間の眼とカメラとの関係はあくまで「似てる」ものに留まり、「同じ」になるわけではない。と思ったが…監督がどう思っていたかは知らない。しかし、カメラのファインダーは閉じられるが眼は開かれ続けるラストを見ると、そんな解釈でもいいような気がしないでもない。