古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

good, pretty girl - Promising Young Woman を見て

・色について、pretty girl

監督の色の感覚がとても好きだと思った。どぎついネオン、パステルカラーのネイル、ユニコーンカラーの髪。原色に光を当て白を混ぜ、全てが商品になり全てが美しくなる。これが映画のテーマである欲望の対象としての「女性」を象徴するものとなる。カラフルなロリポップをしゃぶる姿は明らかにロリータのオマージュであろう。リボンもワンピースも「女の子」を体現するアイテムだ。主人公の家や職場も現実離れしたかわいさがある。そしてキャリー・マリガンといういかにも「可愛らしい」女優がこの役を演じるのも一段と皮肉が効いている。

 

・医学部生、大学生

もちろん女性差別は全社会的な問題だが、世間体やコンプラに縛られない学生だからこそ最も直接的に差別が表現される。特に、今作は医師を目指す学生たちに焦点を当てている。医学部と言えば、入試の際に女子に不利な点数操作を行なっていた事件は記憶に新しい。女性の医師は日本ではまだまだ少ない。一方、看護師は女性がほとんどを占めている。映画の終盤、主人公がナースのコスプレをして復讐相手のもとへ行くのは象徴的だ。

主人公の親友・ニーナがレイプされる事件と主人公自身が殺されるシーンは対応しているわけだが、どちらもパーティーの参加者がかなり酒の入った状態で行われる。自分の大学でもかつてアルコールを使ったレイプ事件が起きて社会的な問題になった。(アルコール文化とレイプは親和性が高いが、必ずしも同じものではないと個人的には思う。)「羽目を外す」ことが許され性犯罪が「若かりし日の過ち」で片付けられてしまう特殊な状況が、人々に内面化された差別意識をあぶり出している。

 

・女性の間の分断、good girl

主人公と亡くなったニーナの同級生・マディソンは典型的な成功した女性だ。男ばかりのメディカル・スクールや医療業界をうまく乗り切り、賞味期限切れにならないうちに結婚することができた。医学部の中で数少ない女子の間でも分断が生まれる。マディソンにとってニーナのレイプと自殺は「うまくやることができなかった」彼女自身の責任にすぎない。むしろ、そういうことにしたい。ここで描かれる自己責任の考え方は現代社会を貫く原理だ。その中で主人公は頑としてニーナとの絆を守り切ろうとする。その絆が果たして「親友だから」というプライベートな理由によるものなのか、あるいは女性としての紐帯を意識したものなのかはわからない。いずれにしても主人公のそうした理不尽をなんとかしたいという思いは、マディソンや他の同級生からは子どもじみた執着か狂気としか映らない。

しかし一方で、レイプ事件が起こるまでは主人公やニーナも成功した女性であったはずだ。難関入試を突破し、かなりの知的能力に恵まれた女性。いわゆる「名誉男性」という存在だ。「名誉男性」という言葉には、男と同等かそれ以上の能力を持ち対等に渡り合える女性というイメージを持たせてしまうという欠点がある。実際にはそんな女性はほとんどいない。名誉男性と呼ばれる女性は、実際には、男の喜ぶことをしてその場にいることを許されているにすぎない。気遣いができること、女性らしい仕草ができること、猥談に恥じらいながら笑うことができること、レイプを見逃し一緒に楽しむことができること、触られても本気で嫌がらないこと…教養や知性がいくらあったとしても、一般的に女性に求められることと同じことを求められる。ある意味では「狭き門」かもしれない。そのくせ、いや、だからこそ、本人は娼婦や労働者階級の女たちを見下す。こうした能力が欠如していた故に主人公はドロップアウトした。そして外見だけは下層階級の女と変わらなくなっていく。ここにクラスに揺さぶりをかけようとする意図が感じられる。個人的には、むしろそうした点でこの映画が面白いものだと思う。

 

・love、愛の死

loveという言葉をめぐる問題ほど面白いものはない。主人公はかつての同級生ライアンと再会し、二人でいることの喜びを感じる。映画の結末に逆らって、もしも二人の関係が破綻しなかったら、という想定をしてみる。もしも主人公がライアンと結婚したなら。子どもを作って幸せな家庭を持ち、マディソンのように成功した人生に復帰して、あるいはこれまでの人生を間違いだったと考えるかもしれない。あるいはニーナの復讐を自分の家庭における自己実現として解消するかもしれない。ライアンは劇中の言動を見る限りでは、さほど女性の権利を擁護してくれそうにもない。主人公はライアンにどのようなloveを求めていたのだろうか?ライアンと話す時、主人公は柔らかく優しい声になっていた。これはgood girlとしての作り声なのだろうか、それとも…?

映画の中盤、道路の真ん中に立った主人公を俯瞰するシーンがある。ここで流れるのがワーグナーのオペラ曲 ”Liebestod”。「愛の死」と訳すことができるが、物語の文脈としては「愛に包まれて死んでゆく」というニュアンスが込もっているのだろう。映画のクライマックスは主人公が復讐相手に殺されるシーンだ。枕で窒息させられ「声も上げられず」死んでいく様はニーナの自殺の再現である。このシーンはたっぷりと時間を取っており、一人の人間が死んでいく生々しさが迫ってくるとともに、孤独に殺されていく悲惨さが強調される。この映画にこの曲を使う皮肉がとても好きになった。