古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

ポスト・モダン特集 - 映画で楽しい人文書

 映画が芸術の一ジャンルであることが信じられない時期があった。今もそうかもしれない。けれど、身の回りには映画と伝統的な芸術ジャンルを同列に扱う言説があふれている。しかも映画を見れば見るほどそうなってきた。
 1回生の頃に読んだ3冊の人文書でも、小説と並んで映画が論の素材として使われている。1冊目、ガブリエル・ヘヒトの "Being Nuclear" は左翼の筆者が核の歴史を帝国主義の文脈に置いて見直している本だが、アメリカのポップカルチャーの具体例として映画や小説、コミックなどが次々と差し出される。2冊目の『男性性を可視化する』は男性ジェンダーを批判的に取り上げるというその趣旨だけで楽しくなってしまう本。美術、文学、映画、バレエなどを取り上げた8つの論文から成っている。3冊目はクリスティン・ロスの『もっと速く、もっときれいに』という、タイトルの訳がうっとりするほど美しい作品。(原題は Fast Cars, Clean Bodies)装丁も気合が入った翻訳本だが、文学や映画をふんだんに使った豪華なスタイルも面白くて、訳者曰く「第一の意義は、単純であるが、文学作品や映画の紹介にある」ほど。何より "In Claude Chabrol's second movie, Les Cousins(1959), a young provincial boy called Charles arrives in Paris to study law, and shares an apartment with his cynical, wordly, 'Nietzschean' cousin, also a law student." から始まる本文は映画好きには死ぬほどうれしい。

 

#1 Gabriel Hecht "Being Nuclear"

 この本では核と帝国主義との関係が論じられている。おおまかに言うと、帝国主義は第二次大戦後も続いており、旧来通り資源は植民地国から採掘されるがウランや核の原料も例外ではない、といった内容である。広島の原爆がコンゴのウランから作られたという事実はその好例である。また、もう一つの前提として、核保有政策を進める国家は国民に対して「核の平和利用」説をプロパガンダして、核エネルギーが身近にあることへの抵抗を減らそうとしてきたことが挙げられる。
 本題の Beat the Devil (1953) の話に移ろう。この映画を知ったきっかけは紛れもなくこの本だが、本文の中ではたった1行しか紹介していない。一応引用しておくと……

Such perceptions infused Cold War pop culture, which sometimes placed its atomic fixations and "savage Africa" in the same narrative frame. Uranium mines provided the most legitimate reason for setting atomic stories in Africa. In the 1953 film Beat the Devil, Humphrey Bogard and Gina Lollobrigida set off with a band of rogues to stake a uranium claim in British East Africa. (p.17)

 この映画(そして原作の小説)のストーリーの中では、ウラン鉱は金鉱や油田などと同じように扱われている。それは当時のアメリカ文化が「核の大衆化」とでも言えるような風潮の中にあったことの証拠だというのだ。
 ちなみに、脚本はカポーティハンフリー・ボガートジーナ・ロロブリジータが出ており、話題性のある映画かと思う。登場人物の設定はかなりめちゃくちゃで、成功を夢見る二組の夫婦のもつれ、といった感じである。原作はイギリス人によるもの(Claud Cockbum)。彼が左翼だったためか、台詞がいちいち現代風刺になっていて、かなり政治色が強い映画でもある。"Being Nuclear" の文脈で見るべきところがあるのならば、劇中でのウラン鉱の扱いである。この話では二組の夫婦がメインキャラクターだが、片方は品の良さそうなイギリス人の若夫婦、もう片方はアメリカ人の詐欺師の夫婦である。4人はアフリカへ向かう船を待つ港で出会うのだが、若夫婦の旦那の実家がアフリカに土地を持っているという話を聞いた詐欺師たちは色めき立つ。どうやらそれはウラン鉱らしいのだ!ここで注目したいのは、ウラン鉱がかつてのプランテーションなどと同じ扱いになっているところである。だだっ広い土地など持っていても仕方がない、税金を取られるだけだわとぼやく若妻も、それがウラン鉱なら…!と目を輝かせる。核利用は、本来人類の英知が成し遂げた偉業であり、あるいは知を過信した人間たちの愚行でもあった。しかしここではそんな神秘的なヴェールははがされ、ウラン鉱は単なる高値の資源として話題に上るのである。よくできたプロパガンダではないだろうか?

 

#2 熊谷謙介『男性性を可視化する』

 この本の中では映画そのものを題材にした論文はないが、映画が出てくる箇所はたくさんある。古屋耕平による「第4章 男らしくない西部劇小説『シェーン』」もそうだが、ここではやはり編著者の熊谷謙介がロマン・ガリを扱った「第6章 母、マジョリティ、減退する性」を見てみたい。
 ロマン・ガリはフランスの小説家である。外交官・航空士としても活躍した。「波瀾に満ちた人生であり、第二次世界大戦での航空士としての活躍もあって、「英雄」「冒険家」「プレイボーイ」という称号が似合う男である。そのためその男性的な側面にばかり注目が向きがちのように思われる」(191頁)ということで、この章では「男の中の男」であるロマン・ガリに女性的な側面を見つけることを試みている。
 熊谷さんの指摘するロマン・ガリの男性性の特殊さは、この文章を読んでもよく分かると思うが『母との約束』を見るとかなり分かりやすいと思う。この映画は彼の生涯を母との関わりのみに焦点を当てて描いている。映画の中で、母の印象的なセリフがある。「男が闘うべき理由は3つ。女、名誉、そしてフランスよ」まさにロマン・ガリの男性的側面に注目したくなるような発言である。こうした言葉を浴びせられて育ったロマンは、しかし、母の言う通りの「男の中の男」になれずに苦悩する。最後には母の願いを全て実現し、母の期待に応えることが人生の全てになっていた。人生の曙で母と交わした「夜明けの約束」を守るために……作家についての一面的な解釈かもしれないが、この見方は男性性を考える上でやはり魅力的だろう。熊谷さんもわざわざ写真まで載せて映画の宣伝をしてくれている。「…ピエール・ニネとシャルロット・ゲンズブール主演で、二度目の映画化も果たした(邦題は『母との約束、二五〇通の手紙』〔監督:エリック・バルビエ、二〇一七年〕)」(200頁)
 ところで熊谷さんの文章を読んでいると、第三波以降のフェミニズムっぽいなと思う。つまり、男性中心主義的なマッチョな価値観で女性のエンパワメントを考えるのはやめて、もっとケアし合う方向に持っていきましょう、というもの。ロマン・ガリはまさしく現代のフェミニズムと通ずるところがあるのかもしれないが、それを男性が言うことの暴力性も熊谷さんは指摘している。

 

#3 Kristin Ross "Fast Cars, Clean Bodies"

 本書はジャック・タチ再評価本と言ってもいいくらい、タチの映画を取り上げて論じている。
p.15「本書を通じて筆者がジャック・タチの映画に立ち戻るのは、タチの映画によって、物が人々の身振り――機械的な手順にまったく親しんでおらず、多くの場合アメリカ映画から習得せざるを得なかった身振り――を押し付ける空間のなかでますます繰り広げられるように見える日常生活がはっきりと感知できるようになるからである。」
「戦後フランスの近代化に関する偉大な分析家ジャック・タチ」(60頁)とか「採算が取れる戦後ただ一人の監督であるタチ」(61頁)とか、もうべた褒めである。ロスにならって、ここでは『ぼくの伯父さんの休暇』Les Vacances de Monsieur Huro、『ぼくの伯父さん』Mon Oncle、『プレイタイム』Playtimeの三作品を見る。
 ロスはこの三作について要約してくれているので引用する。
p.237-9「ちなみに思いがけないところに若いカードルや新しい組織の様式に関する素晴らしい解説があるのだが、(…)それはジャック・タチの作品である。タチの主要な三作品すべてにビジネスマンが出てくる。『ぼくの伯父さんの休暇』では、背景音をなすラジオにビジネスニュースや「成功をもたらす書類鞄」のような製品の広告が常に含まれている。(…)『ぼくの伯父さん』では(…)子どもは、工場の所有者である父親よりもエキセントリックで陽気な伯父さんを好む。『プレイタイム』では、こうした単純な対立は急速に進む近代化によって無意味なものにされる。」
三作は監督演じるユロ氏が中心的なキャラクターになることで繋がってはいるが、中身はかなり違ったものである。ユロ氏の役柄は、一作目ではただの変な人、二作目では主人公の男の子の伯父さん、三作目ではまた変な人として現代社会を見つめるポジションに戻っている。
p.239「実際に、『プレイタイム』の頃には、中心的な登場人物としてのユロは完全に機能しなくなり、レアリスム的に観察される短いカットに取って代わられ、ただユロはそこを通るだけである。タチの初期作品における「伝統的」パリと「近代的」パリの先鋭的な対立が平準化していくことで、徐々にユロも「平準化」していく。ユロという人物が次第に『プレイタイム』に「組み入れられていく」のは、フランスの日々の生活が次第に標準化していくことが物語の水準で反映されているからである。」
「「伝統的」パリと「近代的」パリの先鋭的な対立」は『ぼくの伯父さん』で明快に示されているが、『ぼくの伯父さんの休暇』では近代的なリゾート地の様子を写すことがメインになっており、読み取ろうとしなければ「対立」などは見えない。そして『プレイタイム』に至っては「平準化」されて対立は解消され、近代化されたパリの風景だけが当たり前に写される。さすが「採算が取れるただ一人の監督」だけあって、タチは非常に分かりやすく「対立」を示してくれる。馬車と自動車を並べる手法は、第一作、二作で共通している。第二作目では、そこに自転車も加わる。
 ユロ氏というとても魅力的な人物は、ある種の二面性をはらんでいる。「どう見てもユロという登場人物は会社人間や組織人の「他者」の役割を果たしているのだが、他方で彼はそれと同程度に組織人の分身でもある」(237頁)これは第一作目でよく示されている。車も馬車も何となく乗ってみるがうまく操作できない。テニスもダンスも、一通りの社交はこなすが、どこか奇妙である。滑稽な挙動だが、常にスーツを着ており組織人であることを象徴している。しかし第二作目以降は「他者」の役割に徹してしまっている感が否めなく、個人的にはそこが悲しいところではある。
 この三作は共通して「音」が面白い。第一作目は言わずもがな。映画の通奏低音であるテレビの電気音をはじめとして、ドアの軋み、自動車のガチャガチャした音など、耳障りな音に彩られた作品である。特にドアの軋みは三作に共通している。これこそアメリカ化(近代化)する環境に順応しようとして「慣れない機械的な手順を押し付けられたフランス人たちの身振り」が呈する違和感を象徴するものではないだろうか。

 以上3冊から5本の映画を見た。自分は映画をまとめて見たがるので勝手に〇〇特集と称して一気見しがちだけど、この特集はなかなか終わらず3年くらいかけてしまった気がする。
 最後に、これらの映画を見る中で自然と、モータリゼーションと結びつけてしまっていたことを記しておきたい。クリスティン・ロスの著作の題名にも車が含まれているように、彼女はこの本でモータリゼーション論を長々と展開している。

p.56-7「とはいえ乗用車は、鉄道とは異なり、品物を輸送することは稀である。ただ、乗用車は労働者が商品である限りにおいては労働者を輸送する。人民戦線以前は自動車が労働者に好まれた輸送手段であった。」

『ぼくの伯父さん』では、機能性に特化した郊外の一軒家に住む主人公家族が自家用車を乗り回すのに比べ、下町の集合住宅に住むユロ氏は自転車で移動する。ピカピカで全自動の邸宅に、ユロ氏が自転車を押して入っていくシーンはまさに「対立」を象徴している。また、「人民戦線以前は…」という文章で思い出すのは『モラン神父』や『ヒロシマ・モナムール』でエマニュエル・リヴァが自転車に乗っている姿である。うまく近代化できないことの現れである自動車の故障は『ぼくの伯父さんの休暇』で何度もコミカルに登場したが、『悪魔をやっつけろ』の中でもさりげなく挟まれていたのだった。ロスによれば、フランスでは1960年代になっても自動車は誰にでも手が届くものではなかったそうだ。アメリカにおいてのみ、車は庶民の日常に組み入れられたものだった。(46頁)『母との約束』でも、幼いロマンに向かって母が「お前は将来自動車を手に入れる」と予言する。(もちろん第二次大戦前のこの時期は本当に高級品だったわけだが)
 嫌いな車の話をこんなに色々聞かされると、もはや自動車が現実から離れた「奇妙で幻想的」なものに見えて逆に魅力的に感じてしまうのである。

 

〈作品情報〉
Gabrielle Hecht "Being Nuclear :Africans and the Global Uranium Trade" MIT Press, 2012
熊谷謙介・編著『男性性を可視化する 〈男らしさの表象分析〉:神奈川大学人文学研究叢書44』青弓社、2020年
クリスティン・ロス著、中村督・平田周訳『もっと速く、もっときれいに 脱植民地化とフランス文化の再編成』人文書院、2019年
ジョン・ヒューストン監督『悪魔をやっつけろ』Beat the Devil(1953)
エリック・バルビエ監督『母との約束、250通の手紙』La Promesse de l'aube(2017)
ジャック・タチ監督『ぼくの伯父さんの休暇』Les Vacances de Monsieur Huro(1953)
同『ぼくの伯父さん』Mon Oncle(1958)
同『プレイタイム』Playtime(1967)