古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

Two Guitars

 木枯らしの吹く晩に、松の枝が風に身を任せる。空は朱色に張り裂けて、大きな雲が逃げ惑う。並木道を辿るには車輪の跡を探せばいい。まとわりつく焦げ茶の葉は、あなたの背後で舞い上がってゆく。塵を避けようとかざした右手をそっと下ろし、慎重に目を細めに開けると、くたびれた男たちが木組みの家の前に座っているのが見えるだろう。汚らしく粥を食う老人、泥だらけになった猫を抱く子ども、木箱を囲んでカードをする4人の若者たち……そして目のくらむような焚火の陽炎に浮かぶ長い髪の少女。腰や腕に連なる金属製の飾りは鈍い光を放っている。彼女は座って年上の女と話しているようだ。甲高い笑い声が下品に響き渡る。中年女は急に立ち上がって、小走りで左手へ消えていく。残された少女はおもむろに腰を上げ、うつむきながら着ているものを直す。赤いベストに褐色の長いスカート、小刻みに揺れるたくさんのメダルやリング、全身を大きなショールで覆っている。と、突然ギターがかき鳴らされる。ショールが地面に滑り落ち、少女は勢いよく回りだす。速く激しい音楽に合わせて、長いくせ毛が腕や背中に絡みつき宙に舞う。裸足のつま先が重い襞の間から見え隠れする。スカートをはね上げては落ちる足首には、銀の鎖が幾重にも巻きついている。

 

 小屋の中では小さなマントルピースの下の明かりが空気を温めている。暖炉の前では3人の将校が彼らの腰ほどもある背の高い木製テーブルを囲んでいる。足元には木箱が置いてある。3人のうちブロンドの男がその箱を暖炉の柵に押しやる。彼らのブーツはどれも昨晩の雨で汚れている。テーブルの脚は比較的細く、天板の真下に蜘蛛が巣をつくっている。テーブルの上ではグラスからこぼれおちた水滴で埃が固まりかけている。ブロンド男は制服のボタンを外し、向かいに立つ同僚のような二人に話しかける。

「最近は何人?」

「5人」

「6人」

「こっちは9人だ」黒髪の男が答える。

「負けたね。さあ、君から話せよ」

「一番近いのでは19の娘でね…」

めったに人前に姿を現さない子だった、俺も1か月前にはじめて会ったんだ。偶然、とあるお茶会でね。いわゆる深窓の令嬢というやつさ。うつむきがちで、睫毛の影で顔が曇っているような。お前の好みではないな。しかしいいものだぜ、何しろ生娘なんだから……しかも公爵の娘ときた。父親はこの子を目に入れても痛くないというような有り様で、一人娘だからな、溺愛していたよ。決して外へ一人で出さないし、毎朝毎晩、彼女の部屋に様子を伺いに行くそうだ。そんな箱入り娘だったが、少し構ったらすぐになびいてくれた。父親の目を盗んで会いに来てくれたよ。一途に愛してくれる。うぶだから、俺が普段何をしているかなんて思いもよらない。傷一つないきれいな身体だ。恥ずかしがって、小さな白い手で隠そうとする。俺は彼女の誰も触れたことのない花びらを一枚一枚ちぎっていった。すごくかわいい声で俺の名前を呼ぶんだ。夜が明ける頃、潤んだ目をはじめて上げて、もう他の人には、この身もこの心も渡せないわってね。それはもう、かわいいよ。全身全霊で俺を好いてくれるから。

「でもお前、もうすぐ地方に配属されるんだろう。」

「ああ、好都合だね。……首都で良い思い出ができた。うれしいよ。」

「それで、ここではもう見つけたのか?」

「いいや」

「馬鹿だな、こんなところに女なんかいるわけないだろう」

「そうかな?ほら、見てみろよ」

一人でずっと話し続けた黒髪の男が指さした先には、あの長い髪の少女がいた。いまは落ち着いた曲に合わせて踊っている。ショールを体にしっかりと巻きつけて小さな足踏みでゆっくり回る。大きな瞳が火に照らされてきらきら光る。さっとショールを広げ前へ踏み出す。地面に座り込み腕を大きく回す。彼女のくせ毛は、その大胆な動きよりも大げさに踊っている。少女は踊りに集中していて、腫れぼったい唇は半開きだった。

「そう、あんな女は首都のどこを探したっていない」

「悪趣味だ」

「何とでも。俺はあの娘に決めた」

「おい、やめとけよ」

「いいじゃないか、なんの損にもならないさ」ブロンドでも黒髪でもないもう一人の大柄な男がなだめる。黒髪はグラスを置き外に向かって歩き出す。一歩一歩わざとらしく踏みしめる。その間もずっと少女を見つめている。開け放たれた扉の影では、酔った小男が眠りこけている。扉がより大きく開くと、押されたはずみで横倒しになる。将校は小屋の表に出ると、ギターを弾く男の方へ反れていった。

 

 太い木の柱に寄りかかって、将校はそっと喧騒を伺う。客間の隅を見ながら胸元から小瓶を取り出し、赤い液体が入ったグラスに3滴垂らす。彼の視線の先には、小屋の持ち主の家に続く廊下があった。その暗闇から両手に布のようなものを載せて、少女が歩いてくる。目を伏せて少し早足で、まっすぐ将校の方へ向かってくる。唇は真面目そうに閉じられている。頭を振り顔にかかる髪を払って、持っていた絨毯を差し出す。男が絨毯を取り上げると、彼女の両手の上にサーベルが現れた。

「お忘れものです」

将校は鼻を小刻みに動かして笑い、ジプシー娘から受け取った絨毯を床に置く。サーベルを腰元に戻す。そしてテーブルの上のグラスを渡して中身を飲むよう促す。男の向こう側の壁にかかった絵に気を取られていた彼女は、言われるがまま飲み干す。

 馬車の近くで宴会は続いている。小屋から女が出てきて輪に加わる。将校からギターを取り戻した男の膝では、踊り疲れた子どもが眠っている。あの少女と同じ黒髪が扇状に広がっている。

「どうだい」

「完璧だよ」

「部屋はあったのか」

「空けさせたよ。当然のことじゃないか」

40くらいの男は、娘の頭をなでながら低くうなる。

「兄さんは、最後まで反対していた。まだ早すぎるって。」

「早すぎやしない、あの子はもう15だよ。義兄さんはどうかしてるんだ」

「みんなそう言う。俺だってそう思うさ……だから怖いんだ」

焚火がいきなり大きく燃え上がり、二人は身震いしながら無言で細い目を交わす。

 

 

 

 暖炉の火が金属の柵をチリチリと焼く。マントルピースの上には酒瓶が山と積まれ、熱い空気が小屋を満たしている。野太い声が勢いをつけて、女たちは慣れない農民の踊りをする。彼女たちは長い髪を白い布で覆っている。客間の幅いっぱいに伸びた長テーブルの上を猫が走り抜けていく。真ん中には、黒く顎のところまで伸びた髪の将校と、クリーム色のヴェールに包まれたジプシー娘が座っている。音楽が止み、花嫁の父親と思われる大きな腹の男がテーブルの上に登る。赤いしかめ面がおもむろに口を開け、口上を述べる。立ち上がった二人のイスが階段になり、将校と少女もテーブルの上に押し上げられる。ベールをめくると赤い頬の娘が笑みを浮かべている。上目遣いに男を見つめる瞳は琥珀のように輝く。暖炉の火を片目に二人がキスをした途端、人々の歓声が上がった。その真下では黒猫が魚のマリネに食いついている。

 日付が変わる頃、将校が表へ出ると後から少女の父親もついてきた。彼の用が済んだのを確認すると、小屋の西口に連れて行く。一番広い寝室に案内する。中に入ると、飾りつけられた寝台が目に飛び込んでくる。隣には小さなテーブルがあり、上にランプが置いてある。二つの椅子が向かい合わせになっている。父親は寝台側の椅子に先に座り、将校にも座るよう勧める。将校は席に着くなり、懐から紙の包みを取り出す。眉をひそめて包みをちらっと見ると、それをテーブルの上に放り投げる。同じく眉を寄せた父親は、ゆっくりと紙を剥がして中の札束を数えはじめる。将校は紙巻きたばこに火をつける。しばらくして父親は口を歪めて小さく頷いた。将校は勢いよく立ち上がる。たばこを泥で汚れた白いブーツで踏み消す。そのまま踵をかえすことなく部屋を出る。ガラスが砕け散る音がして、鼠がドアの隙間を走り抜けていった。

 

 

 

 眠りたい。このまま、世界が終わるまで目覚めないくらいぐっすりと。何重にも敷いた羽布団を一枚一枚通って、どんどん下へ落ちていって、地底の王国まで達するくらい、安心して眠りたい。同時に魂は、毛布を突き抜け屋根を破って天まで届く。地上に縛られず、この心は飛んでいける。この身を包む主からも、体中たぎるこの血からも。眠っているときは自由になれる………だめ、今日もだめ。眠りたいのに。

 背中で鼓動を感じる。殺したいくらい落ち着いて力強い鼓動を。だるい熱された息が首にかかる。ぞっとする。脚も、背中も、心臓まで硬くなる。昼間は式の用意で忙しくて、宴会の時にはもうくたくただった。そうしてベッドに入って、夜も疲れるばかり。ずっと、そうだった。荷馬車で暮らしていた時も。背が伸びはじめた頃、夜に、よく大きな男が隣で眠っていた。汗のにおい。排泄物のにおい。お腹に太い指が巻き付いて逃げられない。おでこに、長く絡まった毛が当たる。じっとりしてつっかかる肌が頬を触る。強く締め付けられているわけでもないのに、苦しいし息ができない、なにより、眠れない。父さんはぐっすり眠っている。手足がどんどん冷たくなる。彼の眠りを奪いたかった。今日もよく眠れなかったから、また明日も居眠りをして怒られるんだ。いつ、ゆっくり、眠れるんだろう………

 

 

 

 波に揺られながら、少女はもう高くなった太陽を見上げている。男はずっと反対側のデッキで仲間と話している。彼女は決して客室から出てきてはいけないと言われているが、船酔いがひどかったのだ。海を見るのも船に乗るのもはじめてだった。自分が引きちぎられて溶け出してしまいそう。再び猛烈な吐き気が襲ってくる。気を紛らわすために、目を閉じて思い出をたぐり始める。波の音、せせらぎ、潮風、冷たい真水、藻草、葦………小さい頃はよく川に入った。はじめは足を洗うだけのつもりで、濡れないようにスカートを脱ぎ、ブラウスも脱いでしまう。下着だけになって浅い川を下っていく。とうとう下着も脱いで泳ぎ出す。とっても気持ちよかった。川には自分ひとり。このまま波に飲まれてしまおうか。きっとあの男の元に居続けることはできないんだから。もっとひどいことになる前に、今ここでいなくなってしまったほうが……突然頬を叩かれて目が覚める。

「出るなと言っただろう」

部屋まで引きずられていく途中も吐き気が押し寄せてきた。結局船を降りるまでに何回も洗面器に吐き続けた。船が着き将校が部屋に迎えに来る。少女は慣れない様子で彼の腕に手を回す。デッキに足を踏み出した途端、彼女は気を失った。

 

 

 

 大通りから細い路地に入る。風の強い日には洗濯物が飛んでくる。水はけの悪い道を進む。布地の靴ならすぐにひどい臭いの水が染みてくる。顔に当たったシーツは足を拭くのにおあつらえ向きだ。気を取り直して歩き続けよう。古い看板が留金一つだけでかかっている。もっと強い風か雨が当たれば今にも外れてしまいそうだ。ギシギシと音を立てて、上部が腐って剥げた木の扉が開く。げっそりした顔の女が扉に寄りかかりながら体を半分見せ、汚いスカートをまくり上げる。ようやく歩きはじめたばかりのような小さな子どもが棒で犬を叩いている。犬は逃げ出し、子どもは排水溝に棒を突っ込む。路地に入ってどれくらい行くのだったか。扉に赤くバツが書いてある家が目印だった。そう、この二つ隣だ。そこは他の家より少し大きく、ガラス戸がきれいに拭きあげられている。小さな扉を開けて中に入ると、意外にも高い天井から照明が下がっている。赤い壁、暗い照明、奥には派手なドレスを着た老女が座っている。狭い階段を上がって廊下を進み、光の差す窓のほう、一番奥の部屋にあの少女が眠っている。

「起きれるかな」

あのギター弾きがささやくと、彼女は苦しげな声を上げる。男は暖炉の上の水差しを見つけて取りに行く。そこからコップに水を注いで手わたす。彼女の体を起こし水を飲ませる。

「何があったか話してくれる?」

「マクシム…私ね、やっぱりだめだったの」

彼と馬車に乗ってあの小屋を出たあと、海をわたって彼の任地まで行こうとしたわ。でも船の上ですごく酔って、その時はまだ気づかなかったの、でも降りようとしたら意識がなくなって……目が覚めたらどこかの部屋に連れてかれてた、とても寒くて狭いところ。そしたら、医者が来て、私をベッドの上に乗せて体を調べはじめたの。シーツがとても冷たかった……それで、私は、妊娠してるんだって…医者はそう彼に言ったわ。彼は怒っていた。近くにあったランプを手に取り思い切り壁に投げつけた。彼のことはずっと怖かったけれど、それよりもその時は寒くてとてもつらかった。医者を返した後、彼は歩けない私を強引に外に連れ出し、また馬車に乗せた。そうして気が付いたらここに売り飛ばされていたの。

「これからどうするのか、決めてるのか」

「いま起きたばっかりよ」彼女は首を振りながら軽く笑う。

「俺たちはちょうどこのあたりに来ているんだ。戻ってくるのはつらいだろうけど、」

「マクシム、どうしてここに来たの?」

ギター弾きの男は口をつぐむ。

「なぜ私を探しに来たの?本当に、わからないわ。アンナとエリカが待ってる。早く帰って。」

少女は男を立たせて、ベッドに立てかけてあった傘を持たせる。扉を開けて追い出そうとするが、男は留まろうとする。

「私、ここにいることにしたの。二度と帰らない。」

少女は男を部屋の外へ押し出して扉を閉める。鍵をかけてベッドに倒れ込む。無造作に広がった長い髪と浅黒い頬に一筋の光が当たる。カーテンの隙間から、雲の合間から、陽の光が差し込んでくる。