古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

思い出の掃き溜め 2

計画的に書いたお話。

私は映画狂の高校生だったので、年がら年中映画を見てました。高校1年の冬くらいに、国語便覧に載ってる世界文学作家一覧の映画版作りたいなと思いついた。ヨーロッパ映画と、ハリウッド以外のアメリカ映画に限定して書こうと決め、とにかくいろんな監督を漁り始めた頃に出会ったのがルイス・ブニュエルでした。ブニュエルシュルレアリストで、色物好きな私は無条件で好きになれる映画監督。車爆破させて、ちぎれた手が這いずり回って、すごい気持ち悪くて好き。そんなブニュエルジャンヌ・モローと組んで作ったのが『小間使の日記』。これは彼がフランスというかヨーロッパに戻ってから作った作品なので後期にあたる。この作品の前に、『ビリディアナ』と『皆殺しの天使』という作品を作っていて、どちらもシルビア・ピナルというメキシコの女優を主演に据えたスキャンダラスな作品。ちょうどこの時ブニュエル特集が組まれていて、この2作の予告編を見てブニュエルを知った。でもこの2作以外だとあんまりレンタルに置いてなくて、高校の近くにあった変な名前のレンタル屋にたまたま『小間使の日記』があって狂喜乱舞していたのを覚えている。『小間使いの日記』はオクターヴ・ミルボーの小説で、この映画を含めて3回映画化されている。『あるメイドの密かな欲望』は見たんだけど、ルノワールの方はどうしてもなくて、というかルノワール作品自体が全然なくて歯がゆい思いをした。『小間使いの日記』は、フランスの上流社会を皮肉った小説で、腐りきったブルジョワジーに仕えるメイドがその家庭の退廃を物語る。ブニュエルは左翼だったから、特に後期作品はブルジョワジーに焦点を当てた映画群から構成されている。主役のメイドをジャンヌ・モローが演じたわけだけど、監督は「モローの、足首を左右に揺らす歩き方を見て彼女をセレスティーヌにしようと決めた」的なことを言っていて、これだけ見てもブニュエルがいかに気持ち悪いかわかると思う。ていうか足首左右に揺らすってなんやねんって思ってたら、フランソワ・オゾンの『8人の女たち』でモローのセレスティーヌへのオマージュが捧げられてて、モローとそっくりの衣装を着たエマニュエル・べアールが、黒いブーツでメイドの白いエプロンを踏みつけるシーンを見て、ああ、左右に揺らすって足首グラグラしてるってことかなと。それはまあそれでスッキリしたからいいんだけど。

で、本題は映画じゃないんですよ、『小間使いの日記』みたいな話が書きたいと思ったんです。この小説に一番惹かれたのは、やっぱり主役のセレスティーヌの被差別性ですね。セレスティーヌはメイドとしてブルジョアの家庭で働くんだけど、そこの主人から言い寄られる。それは別にそのキモい主人に限らず、セレスティーヌがどこへ行っても彼女を見る目は欲望にまみれている。彼女の階級の低さと女性性は二重の抑圧の渦中にある。一面的に見れば、彼女は従順なふりをして主人たちを見下し抑圧の影でほくそ笑むというかっこいい話なんだけれど。

『小間使いの日記』に限らず、メイドや下女といった階級の低い女性が、主人から虐げられ性的搾取を受けるという話は古今東西たくさんある。それの現代版を作りたいなと思って書き始めた。舞台はフランスにしよう。住み込みのメイドを現代風にするならどうなるだろう?欧米では比較的住み込みのお手伝いさんというものが一般的。特に学生とかは、家事や育児を手伝う代わりに、その家の一室を与えられて家賃は払わなくていいよという慣習があるらしい。それをau pair girl というらしい。(ちなみにgirl という呼び名は階級性が露骨に出ているので重視した)というところから始めて、子持ちの家族のもとで働くフランスの大学生、という設定にした。

基本的な構造は『小間使の日記』に倣ったが、現代性を出すために家のしつらえや家庭の雰囲気はオゾンの『危険なプロット』や『17歳』、オゾンではないけど『譜めくりの女』というフランス映画をイメージした。ヒロインを翻弄し彼女に翻弄される夫婦の造形はオゾン映画からの借用だった。

いろいろ設定を決めて書いたことは何度かあれど、ここまで細かく決めていきながら書いたのはこれだけだった。普段は行き当たりばったりで書いていたけど、この時は本文の他に(かっこよく言うと)構想ノート的なメモを使いながら書いていた。まあこれもオゾン映画のパロディと言われればそうなんだけど。