古都より

谷崎唐草は京都にやってきました。

ネオンと雨と牛乳瓶 Breakfast on Plutoを見て

プルートで朝食を』Breakfast on Pluto(2005)

監督:ニール・ジョーダン Neil Jordan

主演:キリアン・マーフィー Cillian Murphy


【あらすじ】

1970年代、イギリスからの独立の嵐が吹き荒れていた時代のアイルランド、アルスター地方付近の小さな町で一人の男の子が生まれた。司教の家の前に捨てられた少年・パトリックは、心優しい女性とその娘の家に引き取られた。父も母も知らない少年は、母親に対する強い憧憬の念を抱くようになる。胸に喪失感を秘めた彼はメイクやファッションに興味を持ち、学校や家庭で「男の子」としての教育を受けながらも好きなことを追い求め、周囲の少年たちから浮いた存在になる。そんなパトリックに親友3人が寄り添い続ける。

アイルランドとイギリスの紛争が激しくなり、パトリックの日常にも独立運動の影が忍び寄る。”serious”な社会に耐えられなくなった彼は、自分でつけた名前「聖キトゥン」だけを持って、母親を探す旅に出る。

ロンドンに出たキトゥンは、職を転々として時に逮捕されたり客に襲われたりしながらその日暮らしの生活を続けていたが、ついに本当の母親と再会する。しかし彼が真に求めていたのは母ではなかった…運命に翻弄されながらも愛を求めて生きるキトゥンの物語。


【キトゥンとその性】

男として生まれ、パトリックという名前をつけられ、男性のステレオタイプを押し付けられながらも、彼は自分のアイデンティティーを自分でつかみ取っていく。養母の靴を履き義姉のワンピースを着るのも、マスカラとリップを女の子並みに操るのも、バンドマンに恋をするのも、ぜんぶ彼自身のものである。若者たちは(少年たちは)独立を求めて武装蜂起する世の中で、キトゥンは時代の流れに乗ることができない。暴力をきらい、seriousな雰囲気をきらい、かんたんに他人を信じ身をゆだねるキトゥン。まだ見ぬ母親を探し求めて、メイクをしながら美しかったという母の面影と自分を重ね合わせ、父親の愛を求めて、年上の男性に惹かれていく。キトゥンの性は明らかに失った両親に規定されている。既存のジェンダーにも。それは性に限らず、アイルランド人であることについても同様だ。同じ町で育った親友、同じ国で生きる仲間は大切だけど、国家という箱や独立には興味がない。大義の前に人々が倒れていくことに耐えられない。しかしあくまでも彼はアイルランド人で、イギリスに行けば必然的に「政治的」だと見なされる。

そうした社会の枠組みに縛られながらも、笑って生きていこうとする。「キトゥン」kitten(子猫ちゃん)とはそういうふうにつけた名前なのだ。キトゥンはたしかに既存のジェンダーに規定されている。彼を女性的だというのはたやすいが、人がこうありたいと思えば何のレッテルも貼られずにそう生きられるのが本当だ。彼の属性はGI(ジェンダーアイデンティティー)と呼べるものだろう。そうではありながらも、その人格はジェンダーの側面だけに閉じ込められるものではない。彼の物語は美しいが、それは彼が人生を「物語」にしたからだ。「そうしなければ生きていけなかったから」。みんながキトゥンのように親友に恵まれるわけでも、物語を描けるわけでもない。ジェンダーという檻がなければ生きれた人も大勢いるだろう。これは、まだ檻を壊せない世界での、泥臭くも美しい物語なのである。


【美術/音楽】

カラフルなデザインと70年代のポップスがこの映画を一層魅力的にしている。キトゥンが愛用する花柄のスーツケース、ターコイズブルーの傘、赤いレインコート。ピープ・ショーのピンクと水色、ロンドンのネオン。田舎の牛乳瓶とコマドリ、ボタンで飾り付けられた制服…生きづらいキトゥンの生活を彩ってくれる。

映画は74年のヒット曲”Sugar Baby Love”で幕を開ける。”If you love someone, Don’t think twice.”という歌詞は、キトゥンの人を愛する力を象徴的に表している。タイトルである”Breakfast on Pluto”は、キトゥンのふわふわとした根無草のような生き方を歌い、Dustin Springfieldの”The Windmills of your Mind”は、キトゥンのか細いささやき声と重なる。


【映像】

映像表現は幅が広い。映画の王道をいくエキセントリックな映像として、クラブの爆破と地下鉄のシーンがある。キトゥンがクラブで兵士と踊り、彼に自分の夢を語る。と、そのときロマンティックなダンスシーンに爆弾が投げ込まれ、クラブは一瞬にして燃え上がる。ミラーボールが床に落ちて金属球は粉々に砕け散る。アクションの手法を使ったコントラストが見事なワンシーン。このテロで、アイルランド人であるキトゥンは犯人だと疑われる。7日間の尋問の末、釈放され、再びロンドンの町をさまよう。地下鉄の駅で母親と思しき女性を見つけ、電車に乗って去ろうとする彼女を走って追いかける。その過程で画面の色が白くなっていく。まるで彼の中の希望が色あせていくように。

他にも、小鳥を特殊効果を使って描いているところや、アイルランドの町を上空から鳥のように映すシーンは目の愉しみである。


【キャスティング】

監督のニール・ジョーダンと主演のキリアン・マーフィーをはじめとして、キャストの多くがアイルランド出身の俳優で固められている。キリアン・マーフィーは繊細な表情と中性的なシルエットで、境界のキャラクターであるキトゥンを演じきった。キトゥンの最初の同僚

を演じるのは「ハリー・ポッター」シリーズでムーディ先生役だったブレンダン・グリーソン。粗暴で愛すべきアイルランド男を好演した。


【さいごに】

この映画は一人の人間をリアルに描いているが、あくまでもハッピーエンドの物語である。主人公は傷つき汚れながらも自分の幸せを手に入れていく。けれど、この世はとてつもない不条理であふれている。endの三文字がつけられないような最期を迎える人がたくさんいる。この映画と現実のトランス女性との間にはいくつもの乖離があるだろう。でも、それはそれでいいのだと思う。というかそれこそが映画の、フィクションの醍醐味だ。見た後に幸せになれる。これを見て人生を諦めずにいる人がいるのではないだろうか。だからこそこの映画をこの上なく愛おしく感じるのだと思う。

思い出の掃き溜め 3

文藝部で書いた最後のものは、欲望と思い出を詰め込んだオムニバスでした。小学校高学年の頃、書いてたお話がありました。それはギリシャ神話に登場する王女たちをイメージしたもので、数の美学に魅せられて無駄に登場人物を増やしてしまいました。計画性もなく何人もの人物を動かすことができなくて、その話は断ち切れになってしまったけど、忘れられなくて何らかの形で復活させたかった。小学生の時のアイデアで一番魅力的だったのが「タイムスリップ」。頭が悪すぎてSFもミステリーも書けないけど、歴史はずっと好きだったからタイムスリップ面白そうと思ってたのです。当時は古代ギリシャ独立戦争中のスイスというハチャメチャな組み合わせだったけど、高校生にもなったので良くも悪くも常識がついて、一応一つの国の中でタイムスリップさせようと決めた。

骨格が決まったら、あとはもう好きなもので埋めていくだけ。舞台はドイツ。小学生の時からずっと好きだったドイツ。いろんな時代があってどれも好きだった。高校生になってからはもっとマイナーな国がかっこよく見えてしまってたけど、ドイツが好きな気持ちは変わらなかった。ハイネの妖精物語、グリム童話ルートヴィヒ2世、世紀末ウィーンで攻めよう。(最後のはドイツじゃなくねっていうのは確かにありました。好きだからぶち込んだだけ。ドイツ語圏ということでこじつけた)そしてずっと私の生活を作ってきたバレエを題材にしたかった。ハイネ、バレエ、そう、ジゼルです。ジゼルを踊るバレリーナを主人公にして、彼女がタイムスリップするという。あと鏡も使いたかった。バレエスタジオには必ず鏡がある。鏡のあの神秘的な感じを出したかった。それからアルバン・ベルク。スキャンダラスなオペラを作った音楽家です。そこにクリムトやヴァリもねじ込んで。

そして小学生の頃やりたかったのは、ドイツの森を舞台にすること。本来は質の良いはずの本や映画を好きなところしか見なかったせいで、下手なゴシップのようなエピソードを作ってしまった。書いてる途中もどうかと思ったけど、読み返すたびに後悔する。でも結局ゴシップが好きなのよね、悪趣味だから。

そしてそして、ヴィスコンティのルートヴィヒに出てきたポテントの実験のエピソードを使った。評論家からは難癖をつけられてたけど、わたしは好き。趣味悪いから。実験させられる女優役には、『不滅の恋人』やソクーロフの『ファウスト』に出てくるような庶民階級の娘をイメージした。ついでに快活なパウラ・ベーアのゾフィーを一振り。(ちなみに名前も好きだったから別なところで使った気がする)純真な彼女がルートヴィヒに恋をして落ちぶれていくという、あーねってなるやつ。このルートヴィヒの章書くために本一冊読んだけど、妄想が補強されるだけでさしたるあれはなかった。

物語の最後に、これまで文藝部で書いてきたお話のヒロインを総集合させた。プリキュアかよ。

チョコレート文藝

今週のお題「チョコレート」

チョコレートと女の子という繋がりは全く好きではないが否めないものがある。女の子と文藝という繋がりも然り。私のいた文藝部では、「チョコレート」を使った文章がいくつかあった。どれも女子部員が書いたものだった。

バレンタインシーズンに先輩が書いた『チョコレート戦争』が好き。『チョコレート戦争』という児童文学もあるけど、実はあれは甘い物好きの男の子が主人公で、私の嫌悪感を見事にぶっ飛ばしてくれるすばらしいお話。一方、先輩の『チョコレート戦争』は普通にバレンタインの定石を行く短編で、絶賛片想い中の内気な女の子がチョコを渡して男の子に告白したいのに、大好きな彼をお菓子で窒息させてしまいそうになるというロマンティックで攻撃的な、いかにも思春期の女の子が好きそうなお話。(なんだか先輩をディスってるみたいでちょっとやだな…)大好きですよ。

そしてバレンタインシリーズ二つ目は、同期の部長が書いた甘々ラブコメ。ヒロインの名前が「いちご」というね、ストロベリーチョコレートなんて美味いに決まってんだろみたいなね。そのヒロインがまたまた片想い中のクラスメイトにチョコを渡したい話なんですよ。渡したい、渡したいけど、彼にはかわいい彼女がいるから私は釣り合わない…ってうじうじして、でも結局その男の子もいちごちゃんのこと好きでしたーはいチョコいただきーっていうハッピーエンド。これも大好き。めっちゃ読み返した。いまも帰省すると読み返す。

かくいう私も書いてるんですよ。まあ甘い物全般だけどね。『シュガーマン』っていう甘い物食べ過ぎて自分が食いもんになっちゃったというジンジャーブレッドマンのなり損ないみたいな話を書きました。チョコばくばく食って、クリーム飲んで、アイスもプリンもだぁいすき!私は甘い物食べ過ぎちゃうので、小説の中でたらふく食って現実では食べんなよというつもり書いたんだけど、結局いま、高校の時より食ってるわ。だめだこりゃ。

チョコレートに限らず、文学の中の食は美しく面白い。

思い出の掃き溜め 2

計画的に書いたお話。

私は映画狂の高校生だったので、年がら年中映画を見てました。高校1年の冬くらいに、国語便覧に載ってる世界文学作家一覧の映画版作りたいなと思いついた。ヨーロッパ映画と、ハリウッド以外のアメリカ映画に限定して書こうと決め、とにかくいろんな監督を漁り始めた頃に出会ったのがルイス・ブニュエルでした。ブニュエルシュルレアリストで、色物好きな私は無条件で好きになれる映画監督。車爆破させて、ちぎれた手が這いずり回って、すごい気持ち悪くて好き。そんなブニュエルジャンヌ・モローと組んで作ったのが『小間使の日記』。これは彼がフランスというかヨーロッパに戻ってから作った作品なので後期にあたる。この作品の前に、『ビリディアナ』と『皆殺しの天使』という作品を作っていて、どちらもシルビア・ピナルというメキシコの女優を主演に据えたスキャンダラスな作品。ちょうどこの時ブニュエル特集が組まれていて、この2作の予告編を見てブニュエルを知った。でもこの2作以外だとあんまりレンタルに置いてなくて、高校の近くにあった変な名前のレンタル屋にたまたま『小間使の日記』があって狂喜乱舞していたのを覚えている。『小間使いの日記』はオクターヴ・ミルボーの小説で、この映画を含めて3回映画化されている。『あるメイドの密かな欲望』は見たんだけど、ルノワールの方はどうしてもなくて、というかルノワール作品自体が全然なくて歯がゆい思いをした。『小間使いの日記』は、フランスの上流社会を皮肉った小説で、腐りきったブルジョワジーに仕えるメイドがその家庭の退廃を物語る。ブニュエルは左翼だったから、特に後期作品はブルジョワジーに焦点を当てた映画群から構成されている。主役のメイドをジャンヌ・モローが演じたわけだけど、監督は「モローの、足首を左右に揺らす歩き方を見て彼女をセレスティーヌにしようと決めた」的なことを言っていて、これだけ見てもブニュエルがいかに気持ち悪いかわかると思う。ていうか足首左右に揺らすってなんやねんって思ってたら、フランソワ・オゾンの『8人の女たち』でモローのセレスティーヌへのオマージュが捧げられてて、モローとそっくりの衣装を着たエマニュエル・べアールが、黒いブーツでメイドの白いエプロンを踏みつけるシーンを見て、ああ、左右に揺らすって足首グラグラしてるってことかなと。それはまあそれでスッキリしたからいいんだけど。

で、本題は映画じゃないんですよ、『小間使いの日記』みたいな話が書きたいと思ったんです。この小説に一番惹かれたのは、やっぱり主役のセレスティーヌの被差別性ですね。セレスティーヌはメイドとしてブルジョアの家庭で働くんだけど、そこの主人から言い寄られる。それは別にそのキモい主人に限らず、セレスティーヌがどこへ行っても彼女を見る目は欲望にまみれている。彼女の階級の低さと女性性は二重の抑圧の渦中にある。一面的に見れば、彼女は従順なふりをして主人たちを見下し抑圧の影でほくそ笑むというかっこいい話なんだけれど。

『小間使いの日記』に限らず、メイドや下女といった階級の低い女性が、主人から虐げられ性的搾取を受けるという話は古今東西たくさんある。それの現代版を作りたいなと思って書き始めた。舞台はフランスにしよう。住み込みのメイドを現代風にするならどうなるだろう?欧米では比較的住み込みのお手伝いさんというものが一般的。特に学生とかは、家事や育児を手伝う代わりに、その家の一室を与えられて家賃は払わなくていいよという慣習があるらしい。それをau pair girl というらしい。(ちなみにgirl という呼び名は階級性が露骨に出ているので重視した)というところから始めて、子持ちの家族のもとで働くフランスの大学生、という設定にした。

基本的な構造は『小間使の日記』に倣ったが、現代性を出すために家のしつらえや家庭の雰囲気はオゾンの『危険なプロット』や『17歳』、オゾンではないけど『譜めくりの女』というフランス映画をイメージした。ヒロインを翻弄し彼女に翻弄される夫婦の造形はオゾン映画からの借用だった。

いろいろ設定を決めて書いたことは何度かあれど、ここまで細かく決めていきながら書いたのはこれだけだった。普段は行き当たりばったりで書いていたけど、この時は本文の他に(かっこよく言うと)構想ノート的なメモを使いながら書いていた。まあこれもオゾン映画のパロディと言われればそうなんだけど。

『カメラを持った男』を見て

A man with a movie camera (1929)
Filmed by Dziga Vertov

モノクロ・サイレント映画の最高峰と言われそうな作品。映画から文学性、演劇性などを削ぎ落とし、「映画にしかできないこと」を追求するという映画をよく見る人なら一度は考えそうなアイデアを形にした実験映画。
映画の冒頭はこんなキャプションからはじまる。

「カメラマンの日記からの抜粋。
観客の皆さま、以下の事項にご留意ください。
この映画は、現実の出来事の映画的コミュニケーションにおける実験である。中間字幕、物語、演劇の助けを借りずに演劇と文学の語法からの完全な分離によって、この実験的作品は真に国際的な映画言語を目指す。」

映画の序盤で人間の眼とカメラのアナロジーが提示され、映画の仕事をしている主人公の「男」が日々見ているものをカメラが捉える。このとき両者は一つになる。
映される対象は次々と移り変わり、男が生きる現代社会の産業に焦点があたる。ここでカメラは人間の眼から乖離を示す。現代社会の特徴である「スピード」タバコ工場の少女や電話交換手が操る電話線の動きなどにそれは表される。人間の眼はスピードを知覚できないわけではない。動きの速度が上がっていると分かるからこそスピードという概念がある。しかしその動きを、極めて小さい時間の間隔によって寸断された写真として捉えるカメラとは違う。このときカメラは人間の眼と同じ役割を果たすのではなく、人間の見ている現象を再現するものになる。あくまで人間はこの映像からスピードを感じ取っているのであり、カメラが人間のような知覚をしたわけではない。人間の眼とカメラとの関係はあくまで「似てる」ものに留まり、「同じ」になるわけではない。と思ったが…監督がどう思っていたかは知らない。しかし、カメラのファインダーは閉じられるが眼は開かれ続けるラストを見ると、そんな解釈でもいいような気がしないでもない。

思い出の掃き溜め

文藝部で書いたものを振り返ってあれこれ言ってみようかと思う。

高1の秋から冬にかけて書いた「青い衣」という短編(一人でいっぱいページ数取れないから部誌に載せる文章はぜんぶ短編なんだけど)は結構すき。文章自体が好きというよりも、これを書くきっかけになったこととか、書きながらどんなこと考えてたかとか、美しい(?)思い出が好き。自分の文章はむしろ色々と下手くそだったり思うところあったりで直視できない。もしかしたら自分で書いたものを読むときはいつも、文字を通して、その背景にある楽しかった思い出を見つめてるだけなのかもしれない。

この短編は、バーン=ジョーンズの《廃墟の中の愛》という絵に物語がついてたらどんなんだろうと思って書いた話。バーン=ジョーンズというのはラファエル前派の一員と見なされている画家です。ラファエル前派は、19世紀後半に起きた美術アカデミーから分離して自分たちの芸術を作ろうという動きのイギリス版で、ギリシャ神話やアーサー王伝説、古代から中世にかけてのおとぎ話などをテーマに、幻想的な絵画を描いていたグループ。ラファエル前派は初めこそ反アカデミー色の強いグループだったけど、第2世代、第3世代になるにつれて、むしろアカデミー絵画との親和性を強めていくように見える。(ここのところは不勉強で下手なこと言えないんだけど)テーマも、表面的にはアカデミー絵画と対立するものではないし、アカデミーで仕込まれる精緻なデッサン技術を使って幻想的なイメージを浮かび上がらせているとも言える。そういうグループの一人だったバーン=ジョーンズは、つるっとした肌や整っていて静謐だけれども生気のない表情を持つ人物表現が特徴的。《廃墟の中の愛》は、廃墟になった教会の壁際で寄り添う男女(これまた生気がない人形のような二人)が描かれている。部分的に崩れた壁には植物が絡まり、男女がしゃがんでいる石段を降りると、一面に草が生えている。

この絵に描かれた男女は二人とも顔が真っ白で生気がないんだけど、どちらかというと女の人のほうが生気がない。先に「無表情」と書いて思い浮かんだのが、バーン=ジョーンズは中世美術を念頭において作品制作していたのではないかということ。中世の絵画は、どの人物も無表情で固まったように没個性的に描かれる。人物を特定する必要がある時は、身につけているものなどで違いを出す。(こっちも勉強中の身なので下手なこと言いそうでこわい)バーン=ジョーンズの絵に出てくる人物は、基本的に同じような表情をしてて違いが分からないし、どの絵にも同じような男女が出てくる。もしかしたら彼の反アカデミー性は、中世への憧憬によって説明されるのかもしれない。閑話休題。そんな風に絵を見てたので、女の人が石の彫像になりゆくところに男の人が立ち会っている図、と解釈(妄想とも言う)した。

加えて、これを書いている時、美術の授業で工作の課題が出ていて、その工作物のテーマを大聖堂にしていたのだ。バーン=ジョーンズの作品に描かれた廃墟が大聖堂かどうかは分からないが、私はこれを大聖堂だと思い込んだ。美術の課題を大聖堂という複雑な建築物で作るのはほんとは結構難しいことだったけど、この絵に魅せられてしまって無理やりそのテーマで押し通した。課題のテーマを大聖堂にしてしまう前に、部誌に載せる文章のお題を大聖堂にして発散させておけばよかったというのが正直なところ。

私は怠惰で勉強が嫌いなので大聖堂の下調べを全くせず、妄想の中の大聖堂を露出するだけの描写になってしまった。でもいわゆる時代考証って何のためにするのかというと、フィクションに説得性を持たせるためだ。一方で私は、文藝部を書くという自分の生理現象のために利用しようと決め込んでいた。絶対に読む人のことなんか考えないで好きなこと書くんだと。だから自分だけの大聖堂のイデアを書いたって何の問題もないはず…と思い込んだ。思い込んだはずだけど、内陣が西向きなのに西玄関が裏口だという設定はいくらなんでもおかしいと思うので、これは自分のイデアにも反しているらしい。それでも、書いてた時は楽しくてしょうがなかったし今でも楽しかったなと思い出して楽しくなる。

こういう自然科学の諸法則にとってめちゃくちゃなことばかりを書いていたけれど、一回だけ、計画的に下調べをして書いたものがある。それについてこの次に書こうかな。

谷崎に導かれて

谷崎潤一郎が好きで、デカダンスが好きで、デカダンな映画と文学が大好きで、不毛かつ山のように仕事が湧き上がる生徒会から、そして生徒会と一連托生だった放送部から逃れて、高2の時に映画と文藝部とバレエのために無限に時間を費やす生活をはじめました。高1の時にもすでにたくさん観ていた映画だったけど、本腰入れて映画史にアタックしたのはこの時期だったかと。さらに、文学が読みたい!という欲望が文藝部で強制的に何かを書かねばならない要求と相まって、しかし無限すぎるその森に絶望して、さしあたり読みたいものから読む方針で『アマロ神父の罪』を読んだのは良い思い出です。

 

私は自分の書くものに何か統一性を持たせたかった。そして他の部員との差別化を図ろうとしました。映画を監督単位で見るという作家主義に感化されたのでしょうか。わかりませんが。そうして思い当たったのが、翻訳文学、映画、ヨーロッパというキーワードでした。テーマはいつもヨーロッパっぽいもので、映画から引用した情景を散りばめて、翻訳文学で学んだ文体を使う、ことを旨としていました。

小学生か中学生の頃に宮沢賢治で読書感想文を書いて以来、日本人の小説家をほとんど忌避していたと言ってもよいでしょう、専ら外国文学を読んでいました。考えても詮無いことですが、幼い頃からヨーロッパ趣味に親しんできたせいでしょう。高校受験が終わった日、参考書やノートを片付けて、西陽のあたる部屋でカフカの『流刑地にて』を読んだのを昨日のことのように覚えています。高校受験と言えば、中学生の頃の私の興味と言えばバレエしかありませんでした。自分でもよくあそこまで打ち込んでいたと少々不思議にも思うほど。それでも受験勉強に真剣に取り組むように言われて、言われた通りに勉強していたら、私は勉強以外することがないと気づきました。そんな時に、ふと『ローマの休日』という映画のタイトルが浮かび、これってどんな映画なんだろうという疑問から映画熱が始まりました。受験生にも関わらず、映画をたくさん観たと思います。一つ映画を見ても、それに予告編がついていて、また見たい映画が増えてしまう。高校に入ったら映画をたくさん見るんだと思いながら、重いカバンを背負って30分かかる通学路を走っていた頃を懐かしく思います。

 

文藝部に入った時は、自分でなにかを書くことにあまり乗り気ではありませんでした。ほんとうは図書部に入ればよかったのでしょう、本を読むのが好きなだけなら。でも文藝部の見学に行ったらすごくいい先輩たちがいて、入ってもいいかなと思ってしまった。それに、図書部の先輩に違和感を覚えて、そちらに入るのは躊躇ってしまいました。そうしておそるおそる小説めいたものを書き始めたら、それはなんだかゾラの『制作』みたいなテーマで、制作ってタイトルにしておけばよかったなと今にして思うのです。

 

はてなブログを定期的に読みたいがために会員(?)登録・ブログ開設してしまい、しかも最初に書いたのが自分語りで、楽しくはあるが他のことを書いた方が楽しかったろうと思うと自分なにやってるんだという気持ちです。でも「書くのは楽しい」その気持ちがちょっとでも取り戻せて嬉しいです。そしてこれを書いている間は、どうすれば理想の文学ライフを送ることができるか考えてもいいんじゃないかと思います。そんなこと考えてる間にやれることがあるだろう、そう言われるだろうし自分でもそう思います。でも書いてる間だけは食べずにいられるじゃないですか。過食がそろそろしんどくなって、食べる以外のストレス解消法を探し続けているんです。現実逃避させてほしい。

今までいい感じに書こうと努めていたのに最後がぐちゃぐちゃになってつらいですが、現実が侵食してきたということでもう書くのは終わりにします。